教養学部の方法 ―― 答えも探す、問いも立てる
名は体を表わすとか。
「当たり前でしょう。名と実はいわば表裏一体で、経済学が学べるから経済学部と、経営学が学べるから経営学部と命名されているはず、仮に法学部に進学して法学が学べなければ“看板に偽りあり”ですよ」、学生諸君はあきれ顔をして、私たちに説いてくれました。
なるほど。
でも、ちょっと待ってください。翻って、皆さんの教養学部は如何でしょう。教養学部は教養学を学ぶところ、教養学を学べるから教養学部なのだ ―― 皆さんがそう理解、ないしそれで納得しているのだとすれば、却って私たちは反問したくなります。では、教養学とは如何なる学問なのでしょうか、と。
実のところ、“教養学”という語は、人口に膾炙しているとは言えません。少なくともディシプリン(discipline、学問分野)として認知されているとは言い難い。いいえ、歴史が浅いからではありません。ルーツは古代ギリシャ・ローマ時代にまで遡れます。但だ、日本はそれを“教養学”ではなく“教養”と翻訳通用させてきたのです、“リベラルアーツ”(liberal arts)のことを。
とまれ、リベラルアーツの内容変遷については、図書館に探したり、インターネットに調べていただくとして、教養学部が先の5学部のような命名法に拠っていない、つまり「教養学+学部」ではなく「教養+学部」であるからには学び方も多少は違うのかもしれない、そう勘の働く人がきっといるはずです。
先の5学部は、ディシプリンとして確固たる体系を有しています。アイデンティティが明瞭で、入口から出口まで頗る見通しがよい。その気になれば脇目も振らず一直線に進めます。看板に偽りなし、実に素晴らしい。しかし、良くも悪しくも、教養学部は違う。むしろ積極的に脇目も振る、別の誰かの靴を履いてみたりもする。悪戦苦闘しつつ融通無碍に、人間を、文化を、情報を、地域を繋いだり重ねたり、俯瞰したり仰望したり、想定外も想定内に捉え、思考や方法の多様性多層性と学際性を身をもって確かめるのです。
思うに、教養学部らしさが充溢しているのは、学部共通科目でしょう。本学全6学部のうち、このカテゴリーを擁しているのは工学部と教養学部のみ、しかも3年次には敢えて専門教育のコアともいえる「演習」(通称・ゼミ)を置き、均しく4学科に開きました。どうぞリベラルアーツの名の下、各学科がショッピングモールさながらに揃えた50以上もの“専門店”を堪能してください。翌4年次、このゼミ群は30弱のチームに再編成され、「総合研究(卒業課題)」として大学最後の一歩を踏み出すことになります。たとえば「発達と社会的行動」、「日本社会の変化とライフスタイル」、「ヨーロッパの言語文化」、「表現と文化」、「情報科学と生命のメカニズム」、「コンピュータシステムの構築」、「人の暮らしと自然環境」、「少子・高齢社会と福祉」、「情報技術と社会」、「メディアの文化と産業」等々、チームテーマは千差万別にして多種多様、それは学問の方法や研究の対象が一つには括れないことを、正解が一つではないことを雄弁に物語っています。
当然、在学中には少なくない書物に目を通すことにもなるでしょう。本を開けば答えが書いてあるのかもしれませんが、大学生ですもの、何が書かれていないか、なぜ書かれていないのかにこそ注目してください。答えを探すのではなく、問いを立ててみる。バラバラにみえるあれとこれとの間に橋を架けてほしい、補助線を引いてほしい、イマジネーションを馳せてほしいのです。
ひとまず4年は誰にも平等です。どうか寸暇を惜しんでいただけますよう。